英語長文読解教室 伊藤和夫 駿台予備学校
英語は、ある程度勉強が進むと、読めなくなる時がきます。読めたのに読めなくなる。禅問答のようですが、簡単なことです。例えば日本人であれば、誰でも漫画を読めるでしょう。でも、漫画を読める人が全員「小林秀雄」の文を理解できるでしょうか。難しいでしょう。英語でも同じです。文の内容が高度になれば、それ相応の準備が必要になります。
これは、私が受験生の当時使用していたものです。みっともないほどに狼狽えているのが筆跡から見て取れます。"thus"のような簡単な単語でさえ辞書で確認しています。二回目の「読めなくなる」時期に入っていたのでしょう。でも、この本のおかげで、英語を英語としてみる視点から、文章として見るそれに変えることができました。要するにある程度まで語学の勉強が進むと、いわゆる「現代文」の授業で行っている「文脈把握」が必要になってくるのです。換言すれば、「現代文」の授業は、日本語での「文脈判断」訓練で、一方「英語」の授業は英語での「文脈判断」作業になってくるわけです。
It is not easy, or rather it is easy but unwise, to be dogmatie about the choice of words in English. The rich and varied vocabulary which makes English such a powerful instrument in the hands of a master may be something of a handicap to the unskillful. When the dictionary offers so many words that seem to express his meanig equally well, the beginner is often tempted to use the longest he can find, hoping thus to make his statement seem more imposing. As a matter of fact, there are few true synonyms in modern English. The fact that one word be used as a rough dictionary definition of another does not mean that the two are equivalent in all contexts. Full competence in the choice of words can be acquired only after long practice, with some understanding of their historical significances and their literary and popular associations.
この本で最初に紹介されている文です。今にして思えば、何の変哲もないただの国立大2次の英文ですが、訓練を受けていない普通の高校生が見ると絶望するであろうレベルであることは、おそらく現在も同様でしょう。