思考訓練の場としての現代国語

 

 世の中の「接続詞」を声高に喚いているだけの国語教師に問いたい。上記の問題を解いてみろと!

 

第1問の「言語的危機」とはなにか?

この問題を解くには「危機」とはなにか?その言葉が「言語的」と結びついたときに伝えたいこととはなにか?という問いかけに反応しなければいけない。おそらくそうした問題の趣旨さえ、捉えきれていなのではないか。接続詞を軽視せよといっているではない。でも、それだけですか?と問いたい。

 「危機」とは「文化」というテーマに始まった話がいつの間にか「言語」の話になっている点に着目すると、「文化」と「言語」の関連性をまずは考えよということがわかる。次に夏目漱石の逸話の直後に「思考した内容が、表現方法が確立していないため十分に発表できないでいる」とある。「文化」とは思考の具体例であることがここで推測される。であれば、「思考」と「言語」の関係を考えればいいということになる。「思考」とはなにか?パスカルを例に出すまでもなく人を人足らしめている人間性の根幹である。そして「言語」とはそれを外部に伝える媒介である。つまり、言語がない状態では、人は人としての社会活動に支障を来すことになる。

 本文では、日本人の場合、言語が日本語と外来語の混濁した中に合ってそうした社会的媒介機能を十分に期待できる言語を喪失しているのではないか、と言っているのである。

 

川越進学教室の正解例

 「人間の社会活動に不可欠な言語において、日本人の場合、日本語と外来語が混濁していて十全に言語としての機能を果たしている言葉が喪失しているのでないかという危機感のこと。」

 

棟明郎先生の正解例

「二つの異質な言語文化に迫られて、母国語または外国語のいずれかに賭けなければ、思想的な存在が危うくなるという事態。」